慰霊

慰霊・戦跡

ソロモン諸島の戦い<概略>

1941年12月の真珠湾攻撃で幕を開けた太平洋戦争ですが、日本軍は真珠湾攻撃の翌月1942年1月にパプアニューギニアのニューブリテン島ラバウルを占拠し、5月にはソロモン諸島ガダルカナル島の北約40kmにあるフロリダ諸島ツラギ島に基地を設営、これを足がかりに7月、ガダルカナル島ヘ進出してルンガ飛行場の建設を開始しました。
約550名の守備隊のもと約2300名が飛行場建設に従事していましたが、飛行場完成目前の8月7日、米国を中心とした連合軍が総勢15,000名を超える大部隊でガダルカナル島、ツラギ島などに上陸し日本軍を攻撃、飛行場やツラギ島を占拠しました。
これに対し日本軍は飛行場を奪取すべく艦隊や航空機をくりだし、兵員を送り続けます。度重なる激戦を経て1943年2月、日本軍の完全撤退で幕を閉じるソロモン諸島の戦いと呼ばれる約半年間の戦闘は、日本人2万人以上、連合軍側も多くの犠牲を払った飛行場の争奪戦でした。この飛行場は米軍占拠後ヘンダーソン飛行場と呼ばれ、後現在のホニアラ国際空港になりました。

日本軍の最初の基地ツラギ島に沈む日本軍の水上飛行艇

日本政府建立の慰霊碑(ホニアラ ガダルカナル島)

米国政府建立の慰霊碑(ホニアラ ガダルカナル島)

<戦いの推移>

①第一次ソロモン海戦と先遣隊、一木支隊

1942年8月7日連合軍に占拠された飛行場を取り戻すため、すぐさま三川軍一中将率いる日本海軍第八艦隊が出動し、7日深夜から翌8日未明にかけてガダルカナル島沖に浮かぶ小島サボ島沖で連合軍と艦隊戦を繰り広げ、日本側は1隻の重巡洋艦を失いますが、連合軍側は4隻の重巡洋艦を失いました。これが第一次ソロモン海戦です。
一方8月17日、トラック島を出発した日本軍の一木清直大佐率いる一木支隊の先遣隊916名は、翌8月18日タイボ岬に上陸、海岸線を東にルンガ飛行場奪回に向かいましたが、連合軍の圧倒的な火力の前に21日ほぼ全滅しました。

一木支隊の慰霊碑(テナル教会ガダルカナル島)

日本軍の大砲(ビル戦争博物館ガダルカナル島)

駆逐艦「菊月」の残骸(ツラギ島)

②第二次ソロモン海戦と川口支隊の増援

一木支隊先遣隊のほぼ全滅をうけて川口清健少将率いる川口支隊総勢約7,000名が増援されることになりました。この中には未上陸だった一木支隊の第2梯団も含まれていました。空母3隻、戦艦2隻を含む近藤信竹中将率いる第2艦隊と南雲忠一中将率いる第3艦隊はこの増援部隊輸送支援にあたりました。
対して連合軍は空母3隻を含む第61任務部隊が進出し、両軍は8月24・25日にかけて戦闘を行い、両軍とも損害をこうむりました。これが第2次ソロモン海戦です。
海戦の翌26日より連合軍の攻撃を受けながらも川口支隊の上陸が始まりました。そして9月7日ガダルカナル島東部のタイボ岬に主力約4,000名が上陸を果たし、また11日には川口支隊支援のため青葉支隊1,700名がガダルカナル島西端カミンボに上陸しました。川口支隊はジャングルを進軍し13日夜に連合軍が防衛戦を敷くムカデ高地へ総攻撃をかけますが、連合軍の大量な武器と兵力の前に退却を余儀なくされました。

川口支隊の慰霊碑(ホニアラ ガダルカナル島)

激戦地ムカデ高地とヘンダーソン空港(ガダルカナル島)

米軍が駐留施設の一部としていた輸送艦の残骸(ツラギ島)

③第17軍と第2師団による大増援

日本軍はさらに第17軍司令官、百武晴吉中将率いる第17軍のほか第2師団の主力とあわせて計15,000名の大増援を決定し、連合艦隊はこの輸送支援のために10月13日から3日間にわたり戦艦榛名、金剛以下巡洋艦などの艦砲射撃でヘンダーソン飛行場を攻撃し、大打撃を与えました。この攻撃の間の10月14日、今回の増援の中心をなす6隻の輸送船がガダルカナル島に到着しますが、うち3隻は物資の揚陸中に連合軍の攻撃で沈められてしまい、兵員は全員上陸しましたが、弾薬は1/5、食料は1/2しか揚陸できませんでした。
またそれまでの残存兵力約5,000人は十分な補給もなく、戦力とするには難しい状況でした。総勢1万~1万5,000の部隊は、再びジャングルからのルートで進軍し10月24日~26日にかけて攻撃を行いました。しかしこれも失敗します。
この頃、制空権が米軍にあることから武器・弾薬・食糧の輸送は困難を極め、生存に必要な食料を確保することも難しくなっていました。ガダルカナル島が餓島と呼ばれた所以です。

日本軍第2師団慰霊碑(ガダルカナル島)

物資兵員輸送のため揚陸した鬼怒川丸の残骸(ボネギビーチ ガダルカナル島)

日本軍の基地があったムンダ周辺の小島に眠る日本軍の戦車

④さらなる増援と第三次ソロモン海戦

日本軍は飛行場奪回のため制空権がない厳しい状況の中で、さらに増援と物資輸送が続けられます。11月14日、艦隊に守られて兵員、資材、糧秣を積んだ大型輸送船11隻がガダルカナル島へ向いますが、連合軍機の攻撃などにより6隻が沈没し、両軍とも多くの戦闘艦を失います、第三次ソロモン海戦です。
その後、日本軍は様々な方法で兵器、食料などの輸送を試みます。今も船体の一部が残る「鬼怒川丸」はこの時、海岸に乗り上げ、物資が陸揚げされました。しかし十分な物資は届かず、アウステン山はじめガダルカナル島各地に駐留する日本兵は生存の危機に瀕してゆきます。

⑤日本軍の撤退と連合軍の西進

度重なる作戦失敗と物資輸送の停滞による現地兵員の維持が困難なことから12月25日、ガダルカナル島からの撤退が正式決定され、翌年1943年2月1日、4日、7日の3回に渡りエスペランス岬より夜間に駆逐艦で脱出する作戦が遂行されました。連合軍はこの脱出作戦には全く気づかず約1万人の日本兵が撤退しました。
ガダルカナル島に上陸した総人員は約3万1千人、戦死・行方不明約2万1千人でしたが、そのうち戦闘で死亡したのは約5千人と推定され、残りの約1万5千人が病と飢えに倒れたといわれています。
その後ガダルカナルを守りきった連合軍は、7月5日にはソロモン諸島西部のニュージョージア島に上陸し、日本軍飛行場のあったムンダを制圧し、さらにニューギニア島方面=西方面へ進出してゆきました。

ムンダ飛行場脇に建つ全国ソロモン会建立の慰霊碑(ムンダ ニュージョージア島)

当時の兵器の残骸を集めた博物館(ムンダ ニュージョージア島)

日本軍の高射砲が並ぶ(ムンダ ニュージョージア島)

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